囀る不幸に安寧を
夜は嫌いだ。特に雨足の強い夜は、眠れない。遥か彼方に置き去りたいのに、蔓延り、消えない記憶が、私を夢から引き剥がす。
横たわることなく、部屋の隅で膝を抱え、体をきつくきつく抱きしめて、じっと息を殺す。
そうでもしないと狂ってしまいそうになる。
眠気に眼が負けても、決して目を閉じてはならない。漆黒に心を、身を許してはならない。
するり、障子が空いた。
びくりと体が跳ねる。
ひきつる喉。
声がでない。
はくはくと、空気を求めて口は動くのに、体は縫い付けられたように固まり情けなく震えるだけ。
「やれ、何を怯えておる」
深い、ひび割れた、男の声。
「ぁ……」
ゆらり、近付いてくる彼はあれとは違う。
違うとわかっていても、どうにもならない。
くるり、優雅に回せた指先に従い障子が閉まる。
男は宙に浮く台座を目の前まで進めて高度を下げた。
「」
「ひっ」
伸ばされた手のひらに、自制できない恐怖が口から飛び出た。
違う違う違う!
この方を否定したいわけではない!拒絶したいわけではない!
己を抱える力を強めて首を降る。
「どこを見ておる、。われを見よ」
静かな声。
あれとは違う。
穏やかな声。
ゆるゆると、顔をあげる。
指先が見え、体が震える。
「そちらではない、こちらよ」
こちら。
声のする方へ、視線を向ける。
人の、形。人の、顔。それを覆う白頭巾、頭巾の隙間から私 を覗く月のような柔らかく真っ白な瞳。
知っている。
大丈夫。
この方は、大丈夫。
「おまえさま……」
金縛りが溶ける。
吐息のような声が漏れる。
同時に、ぼろりと両の瞳から涙が溢れて、かの方の胸元へ飛び込んだ。
「ひっく、もうしわけ、もうしわけありませぬっ」
「よいよい、落ち着くまでこうしていよ」
優しく、けれど力強く抱き込まれる。
嗚咽を漏らす私の背を何度も、何度も撫でてくださる。
私が落ち着くまでずっと。
どれほど経ったことだろう、息が整ってきた頃に、抱き締める力が緩んだ。
落ち着いてくると、今度は気恥ずかしさが込み上げてくる。夫とはいえ、殿方に自ら抱きついた挙げ句泣きわめくなど、平素の私からは恐らく考えもつかぬ所業であっただろう。
「なぜ、お気付きに……?」
顔を胸元に押し付けたまま問いを投げた。
日のある間、特に平素と態度を変えたつもりはなかった。いつも通りの私であったはずだ。ただでさえ、人との接触を嫌う夫と顔を会わせる時間自体、少ないはず。
「さて、なぜであろうなぁ」
喉で笑いながら、夫は私の髪を包帯に巻かれた手で鋤く。
「寝付けぬ夜に不幸の囀りがわれを呼んだ、といったところか」
「不幸、の……」
すい、と一房、黒の髪をさらって口元に運ばれる。
不幸、だろうか。
過去の記憶がちらつき、ふるりと体が震える。誤魔化すように夫へしがみついた。背をそっと支えてくださる暖かさに、また泣きそうだった。
「こうしておるとただの女よなァ。三成や左近を投げ飛ばした者とはとてもとても」
「あ、雨足の強い、闇夜だけにございます」
それに、確かに投げ飛ばしはしたが、手の内がすでに明かされている以上、次はない。
「雨が降れば、毎夜か」
「……は、い」
情けない。
実質的には人質という身分でこの方の室に納められたというのに、このような姿を晒すなんて。
手間をお掛けするなど、してはならないのに。
「今は」
「……ぇ」
「今は、良いのか?先と変わらず、漆黒の天からおつる雫がこれでもかと地を濡らしておる今は」
今は。
耳を済ませば、強かに地を、瓦を打つ雨音が聞こえる。闇も深い。
けれども、恐怖も、震えもない。それは単に。
「御前様が、……こうしてくださっていますので……」
この方の温もりが例えようのない、絶対的な安心感を私に与えている。
もうこの際のこと、と恥を捨てて擦り寄れば、少し驚かれたように息を吸う音が聞こえた。
「、さようか」
「はい」
「このわれが、な……いや、よかろ」
ふわり、私を抱えたまま台座が浮き、布団のそばまで移動した。
台座から降りることなく、くるり、手のひらを舞わせば、かけ布団が私たちを包み込んだ。
「御前様……?」
「ぬしを暖に、われは休むとしよ。泣いた小鳥が静まれば眠気も襲い来る」
共にいてくださる、と。
胸に溢れるのは歓喜。
男に情など移したこともなかったというのに、この方は、いとも簡単に私の心へ滑り込む。
「まだ明けぬ、ぬしも寝やれ」
「……はい」
再度擦り依る私を彼は優しく包んで。
この日、初めて雨の夜に安寧を得た。
+++あとがき+++
御前様って呼んでみたかった!
大谷さんは不幸な人にはきっと優しい。
ヒロインさんのトラウマは描写しようと思いましたがR18G入りそうだったのでご想像にお任せします。
あれ?と思って見返したら戦国での初妻作品でした、びっくり。
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2014.05.13